青木問題
昔、批評家がフリッパーズギターを
「彼らは、音楽はいいけど性格が悪い」
と言ったのを受けて、小沢健二が
「上等じゃねーか。性格はいいけど音楽が悪いのに比べたら、どっちがいいんだよ」
と発言したことがあったが、
要はそれと同じことかと。
格闘技として、
「強いけど、人格的に難ある者」
と
「人格的に優れているが、強くない者」
と、どっちがいいんだ、といえば、
そりゃプライオリティは「強さ」にあるわけであって、
その限りにおいて「人格的に難あるチャンピオン」は、構造的に生まれ得る。
朝青龍問題とか、柔道界における石井問題と根は同じで。
じゃ、
相撲における「横綱審議委員会」とか、
柔道における「柔の道」みたいな、
チャンピオンに対して人格面の成熟をも求めるための何らかの制御装置を、
近代MMAが発明し得るのかどーか、とゆーことなんじゃないか。つまるところ。
その制御装置が「地上波を失わないため、スポンサーを失わないための、圧力」だけじゃ、
何とも心もとない、とか。
そもそも、多くの格闘技では、
その根っ子に何らかの美学があって。
柔道や剣道や空手のよーな日本発の格闘技には、それぞれの「道」があるわけだし、
フェンシングには騎士道があるんだろーし、
レスリングだって、紳士であることの表しとしてシングレットにハンカチ入れとく、みたいなのとか。
で、じゃ、決闘であるヴァーリトゥードを根っ子にした、
もしくはあらゆる格闘技を総合したものであるところの「近代MMA」において、
その「美学」の根拠は、いったいどこに求められるべきなんだ、とゆー議論もあるはずで。
ま、青木は前から
青春の曲がり道をまだ曲がり終えていない「子ども」といえば子どもであり続けたのであって、
だから、いったん負けたらそれを客観的に把握することが出来ないから
「泣く」とゆー感情的行為でしか受け止められないわけだが、
でも、今のMMAで、日本人が世界に通用するんじゃないかと思わせてくれるとしたら、
今の青木や、例えば全盛期の五味や、ちょっと前までのKIDのよーに、
ある意味「子どもの全能感」でもっていけるところまで行く、
とゆーのしか無いのも確かで。
柔道でも、子どもの石井が金メダルをとって、大人の鈴木桂治が負けたのとか。
大人の対応で世界と向き合えるのは、桜庭に始まり魔裟斗で終わったんじゃないか、とゆー気も正直する。
(でも、亀田1は、親父や弟が子どもなぶん、長男は「大人」でチャンプになったと思うけど。)