引き続き青木問題

引き続き、青木の「オトナじゃないの」問題。


アスリートにとっての「大人になる問題」って、
意外に大きな根強い問題と思ってて。
今だと典型的なのは例えば、浅田真央
何も恐れず銀盤の上を滑っていた少女が、
「キムヨナ」とゆー「他者」と出会うことによって、
そして年齢に伴う女性特有の体型の変化と相まって、
かつてのよーに自由に滑れなくなってしまったわけで。
そんなケースが、日本のスポーツ界にはたくさんあると思います。



で、話は変わりますが、
ちなみに僕、
クリスマス休暇でイタリアに行って来たんです。
で、コロッセオも見て来たんですが、


ガイドの受け売りですけど、
コロッセオで戦っていたグラディエーターの戦いで決着がついた時、
敗者にトドメを刺す(=殺す)かどーかは、
観客の判定に委ねられたと。
観客が「勇敢に戦った」と認めた場合は、観客達は親指を上に立てて敗者の命を救うが、
臆病だった者に対しては、観客は親指を下げて、それを受けて敗者はのどをかっ切られてトドメを指されたと。
(皇帝が観覧していた場合は、観客の反応を見て皇帝が決定したらしい。)


つまりは、
古代ローマの爛熟期においては、
競技者の「死」までもが、観客にとってのエンターテインメントに含まれていたと。


ひるがえって「現代MMA」、
とゆーか近代スポーツ全般に言えることなのだろーが、
ここに「死」は当然含まれてはならず、
そこにはやはり何らかの「制御装置」が発明されたはずで。
例えば
スポーツマンシップに乗っ取り正々堂々と戦うことを誓います」とか
「オリンピックは参加することに意義がある」とか、
「健全な精神は、健全なる肉体に宿る」とか、
近代スポーツの各場面に、何らかの精神論が必ずついてまわるのは、
たぶんそんな要請があったからだろうかと想像される。


「試合が終わったら、敵・味方なしのノーサイド
ってのも、たぶんそんな時代の要請があったはずで。
今回の青木問題のリアクションの中で、
「もし青木が試合後に廣田を称えてたら、そっちの方がよっぽど嘘クサい」
とゆーのも少なからずあったと思うけど、
嘘クサいのはもちろんその通りであって、
でもその嘘クサさを前提とした上で「現代MMA」は成立してるんだから、
やっぱり「試合後はノーサイド」であるべきだったのではないかと。
独立した個人(=大人)個人の存在を前提として成立している近代においては、
アスリートもやっぱりいつかはオトナにならなきゃいけないのだろう。



でもまぁ正直、
今回の青木問題なんて、
試合後にレフェリーが青木に一発イエローカードをリング上で出してればこんなに問題にならなかったよーな気もして、
この程度の問題が未だに解決できない現状を見て思うのは、
そもそも「MMA」自体が、1993年のUFCスタートに誕生したのだとしたら、
MMA」はまだ満16歳なわけで、
MMA」そのものがまだ「オトナになってない」んじゃねーの、
ってことだったり。