カーリング精神

僕も平日昼間はフツーに仕事をしているので、
てゆか平日夜中も休日昼間も休日夜中もフツーに仕事をしているので、
バンクーバー五輪はほとんどリアルタイムで見られなくて、
ダイジェストなりニュースなりで確認する程度だったんですが、
そのせいか、今回の五輪についての報道に接して思うのは、
競技そのものを楽しむのではなく、
選手の服装がどーの、
フィギュアの採点基準がこーの、
みたいな、
競技の外側で起きていることの方で語られることの方が多かったんじゃないか、
とゆー。


でもこれは、別に五輪に限ったことではなく、
朝青龍にしろ青木にしろ亀田にしろ、
今の日本のスポーツ観戦文化そのものについて、全般的に言えることであって。
試合そのもの・演技そのものの素晴らしさについて語られたスポーツ批評って、
日本じゃしばらく目にしてないっつーか。


で、そんな中で今回、割と純粋に「競技そのものの面白さ」で語られていたのが、
カーリングだったのかなぁ、と。


そんなカーリングの、競技としての面白さを構築している、大きな要素の1つが、
カーリング精神」で。


カーリングは、五輪にも採用されるよーな対戦競技でありながら、
referee(仲裁する人)やjudge(判断する人)やumpire(審判する人)がほとんど登場せず、
ほとんどの進行が競技者同士のセルフジャッジで行なわれている。
三者が出てくるのは、どっちがファーストストーンか微妙な時にコンパスみたいなものを持ち出して測る時くらいで。
競技のうえで起こった微妙なこと、
例えばスウィープしている時に足が石にぶつかったんじゃないか、とか、
そーゆーことが起こっても、
基本は当人同士の話し合い、てゆか、当人が「ぶつかってない」と言ったらぶつかってないと信じる、
とゆーことになるんだ、と聞いた。
基本、第三者がからまないから、
買収なり八百長なり何らかの意思なりが、とりあえず加わりづらいわけで、
だから、競技そのものを楽しめる、
とゆーのはありそうだ。




青木問題で散々書いたことの、ある種繰り返しになりますが、
スポーツとゆーのは基本、
相手を打ち負かすこと、人を蹴落とすことによって成立しているわけで、
そんなことをやってたら、いつかは、心がすさむ。
だから、心がどんどんすさんで行かないよーに、
スポーツマンシップ」だったり「武士道」だったり「横綱の品格」だったり「カーリング精神」だったり、
あらゆるスポーツには、何らかの制御装置が必要なのだろうと。
それが伝統であり文化なのだろうと。




ま、カーリングだって別にそんな奇麗ごとだけで済んでいるわけではないかもしれず、
はっきりいえば狭い世界だから、
派閥や権力争いはあるんだろーし、
それこそ近江谷の親父がどーのとかあるのかもしれないが、
そもそも、ウィンタースポーツそのものが、北半球に住む白人の道楽であって、
そこには本質的に差別が含まれてる、とも言えるのかもしれず、
でも、
それはそれとして、
建前であっても「カーリング精神」とゆー伝統なり文化なりが、
ちゃんと存在しているのは、
やっぱり必要なことだなぁ。と思います。