桜庭和志「独創力」
昨年末に買ったまただったが、ようやく読んだ。
とりあえず、なんで今、この本が企画〜発売されたのかが、
よくわからない本だった。
タイトルからなんとなく、
中村俊輔の「察知力」や、
遠藤保仁の「自然体」のよーな、
アスリート哲学の新書路線を狙ってるのかなー、とも思ったが、
そもそもサイズが新書ではないし、
内容も特に、桜庭ならではの哲学を抽出しているわけではなく、
ただたんに漫然と、子どものころから現在までの人生を振り返ってるだけで、
だったら藤本かずまさが「ぼく」の続編を書きゃいーじゃん・・・
としか思えないっつーか。
タイミング的にも、
別に今って、
ことさら、桜庭の足跡をまとめる必然性のある時期だとも思えず。
じゃ、深い話が出てるのかとゆーと、
高田との間とかは、妙に遠慮した記述になっていたりするわけで、
その辺を突っ込んでるわけでもなく。
個人的には、
美濃輪戦の後にリング上で何話してたのかなぁ、
とゆー長年の疑問が若干晴れた、とゆーのはあるけれど、
それくらいで。
なんか、今、本を出さなきゃならなかった特別な理由でもあったんだろーか・・・
とか勘ぐってしまうくらい、必然性が感じられないよーな本でございました。
引き続き青木問題
引き続き、青木の「オトナじゃないの」問題。
アスリートにとっての「大人になる問題」って、
意外に大きな根強い問題と思ってて。
今だと典型的なのは例えば、浅田真央。
何も恐れず銀盤の上を滑っていた少女が、
「キムヨナ」とゆー「他者」と出会うことによって、
そして年齢に伴う女性特有の体型の変化と相まって、
かつてのよーに自由に滑れなくなってしまったわけで。
そんなケースが、日本のスポーツ界にはたくさんあると思います。
で、話は変わりますが、
ちなみに僕、
クリスマス休暇でイタリアに行って来たんです。
で、コロッセオも見て来たんですが、
ガイドの受け売りですけど、
コロッセオで戦っていたグラディエーターの戦いで決着がついた時、
敗者にトドメを刺す(=殺す)かどーかは、
観客の判定に委ねられたと。
観客が「勇敢に戦った」と認めた場合は、観客達は親指を上に立てて敗者の命を救うが、
臆病だった者に対しては、観客は親指を下げて、それを受けて敗者はのどをかっ切られてトドメを指されたと。
(皇帝が観覧していた場合は、観客の反応を見て皇帝が決定したらしい。)
つまりは、
古代ローマの爛熟期においては、
競技者の「死」までもが、観客にとってのエンターテインメントに含まれていたと。
ひるがえって「現代MMA」、
とゆーか近代スポーツ全般に言えることなのだろーが、
ここに「死」は当然含まれてはならず、
そこにはやはり何らかの「制御装置」が発明されたはずで。
例えば
「スポーツマンシップに乗っ取り正々堂々と戦うことを誓います」とか
「オリンピックは参加することに意義がある」とか、
「健全な精神は、健全なる肉体に宿る」とか、
近代スポーツの各場面に、何らかの精神論が必ずついてまわるのは、
たぶんそんな要請があったからだろうかと想像される。
「試合が終わったら、敵・味方なしのノーサイド」
ってのも、たぶんそんな時代の要請があったはずで。
今回の青木問題のリアクションの中で、
「もし青木が試合後に廣田を称えてたら、そっちの方がよっぽど嘘クサい」
とゆーのも少なからずあったと思うけど、
嘘クサいのはもちろんその通りであって、
でもその嘘クサさを前提とした上で「現代MMA」は成立してるんだから、
やっぱり「試合後はノーサイド」であるべきだったのではないかと。
独立した個人(=大人)個人の存在を前提として成立している近代においては、
アスリートもやっぱりいつかはオトナにならなきゃいけないのだろう。
でもまぁ正直、
今回の青木問題なんて、
試合後にレフェリーが青木に一発イエローカードをリング上で出してればこんなに問題にならなかったよーな気もして、
この程度の問題が未だに解決できない現状を見て思うのは、
そもそも「MMA」自体が、1993年のUFCスタートに誕生したのだとしたら、
「MMA」はまだ満16歳なわけで、
「MMA」そのものがまだ「オトナになってない」んじゃねーの、
ってことだったり。
青木問題
昔、批評家がフリッパーズギターを
「彼らは、音楽はいいけど性格が悪い」
と言ったのを受けて、小沢健二が
「上等じゃねーか。性格はいいけど音楽が悪いのに比べたら、どっちがいいんだよ」
と発言したことがあったが、
要はそれと同じことかと。
格闘技として、
「強いけど、人格的に難ある者」
と
「人格的に優れているが、強くない者」
と、どっちがいいんだ、といえば、
そりゃプライオリティは「強さ」にあるわけであって、
その限りにおいて「人格的に難あるチャンピオン」は、構造的に生まれ得る。
朝青龍問題とか、柔道界における石井問題と根は同じで。
じゃ、
相撲における「横綱審議委員会」とか、
柔道における「柔の道」みたいな、
チャンピオンに対して人格面の成熟をも求めるための何らかの制御装置を、
近代MMAが発明し得るのかどーか、とゆーことなんじゃないか。つまるところ。
その制御装置が「地上波を失わないため、スポンサーを失わないための、圧力」だけじゃ、
何とも心もとない、とか。
そもそも、多くの格闘技では、
その根っ子に何らかの美学があって。
柔道や剣道や空手のよーな日本発の格闘技には、それぞれの「道」があるわけだし、
フェンシングには騎士道があるんだろーし、
レスリングだって、紳士であることの表しとしてシングレットにハンカチ入れとく、みたいなのとか。
で、じゃ、決闘であるヴァーリトゥードを根っ子にした、
もしくはあらゆる格闘技を総合したものであるところの「近代MMA」において、
その「美学」の根拠は、いったいどこに求められるべきなんだ、とゆー議論もあるはずで。
ま、青木は前から
青春の曲がり道をまだ曲がり終えていない「子ども」といえば子どもであり続けたのであって、
だから、いったん負けたらそれを客観的に把握することが出来ないから
「泣く」とゆー感情的行為でしか受け止められないわけだが、
でも、今のMMAで、日本人が世界に通用するんじゃないかと思わせてくれるとしたら、
今の青木や、例えば全盛期の五味や、ちょっと前までのKIDのよーに、
ある意味「子どもの全能感」でもっていけるところまで行く、
とゆーのしか無いのも確かで。
柔道でも、子どもの石井が金メダルをとって、大人の鈴木桂治が負けたのとか。
大人の対応で世界と向き合えるのは、桜庭に始まり魔裟斗で終わったんじゃないか、とゆー気も正直する。
(でも、亀田1は、親父や弟が子どもなぶん、長男は「大人」でチャンプになったと思うけど。)
TBS格闘技
紅白後半が40.8%
Dynamite!!後半が16.7%
ガキ使前半が16.4%
てっきりガキ使が民放1位をとるもんだと思ってたが、
意外にDynamite!!がとった。
紅白が40.8%にとどまったことで、年間1位も内藤vs亀田の43.1%に確定したわけで、
「TBS格闘技」とゆーコンテンツは、
僕が思ってる以上に、国民に定着しているのかもしれない。