MMA Legend 桜庭和志

MMA Legend No.3(エンターブレインムック)

MMA Legend No.3(エンターブレインムック)

いやー、面白く無い。
あいかわらず。


世の中に
<1>モノを新しく作る人

<2>他人が作ったモノにのって維持する人
がいるとして。


例えば、「格闘技通信」を作った谷川貞治(厳密には2代目ですが)や、
紙のプロレス」を作った山口日昇や柳沢忠之とかって、
雑誌が軌道にのったら、
自分たちは、K-1やハッスルとゆー新しいものを「作る方」に必然的に移ってったわけで。
で、今の格闘技雑誌に書いてる人達ってのは、
そーやって最初に作った人達がみんな移っていった後に、
残った空洞を埋めてる人達で。
他にも、例えばそれこそ「観戦記ネット」を作った人も、
後にジョシカクを「作る」方に移ったと言えたりして。


で、
そーゆーと、
<1>の「作る人」の方が大変でエライ、
とゆーふーに普通は思われるけど、
実は本当のセンスだったり実力を求められるのは、
<2>の「維持する人」かもしれず。



言いたいことがあるうちは、やりたいことがあるうちは、
苦しくても、モチベーションで何とか「作る」苦しみってのは、
持ちこたえられたりする。
でも、「3号雑誌」とゆー言葉があるよーに、
本当に実力を試されるのは、
言いたいことを全部吐き出して、自分の中に何も無くなった時に、
その時こそ、その無から何を生み出し続けられるか、
の方であるかもしれず。


桜庭とゆー人は、言うまでもなく
「作る」人。
日本において、総合格闘技を、PRIDEを、
ずっと作って来た張本人であり。
しかも今もなお、
ヌルヌル事件なり弁慶戦なりで、
常に新しい問題を提起しては、
「現状を維持すること」に汲々としてる今のMMA界に、
根源的な問題を「作り」続けている、
ある種やっかいな存在で。


でも、今の総合の人・格闘技雑誌を作ってる人達ってのは、
基本「維持する人」ばかりだから、
桜庭を、語りきれていないのである。
結局、「Legend=伝説」を扱いながら、
新たな歴史を文章で「作り出す」ことが出来ずに、
これまで散々語られた蓄積を、縮小再生産してるだけで。


そーやって、「維持」するための縮小に次ぐ縮小再生産を繰り返してたら、
当然いつかは、
無くなっちゃうのはわかってると思うんだが。

カーリング精神

僕も平日昼間はフツーに仕事をしているので、
てゆか平日夜中も休日昼間も休日夜中もフツーに仕事をしているので、
バンクーバー五輪はほとんどリアルタイムで見られなくて、
ダイジェストなりニュースなりで確認する程度だったんですが、
そのせいか、今回の五輪についての報道に接して思うのは、
競技そのものを楽しむのではなく、
選手の服装がどーの、
フィギュアの採点基準がこーの、
みたいな、
競技の外側で起きていることの方で語られることの方が多かったんじゃないか、
とゆー。


でもこれは、別に五輪に限ったことではなく、
朝青龍にしろ青木にしろ亀田にしろ、
今の日本のスポーツ観戦文化そのものについて、全般的に言えることであって。
試合そのもの・演技そのものの素晴らしさについて語られたスポーツ批評って、
日本じゃしばらく目にしてないっつーか。


で、そんな中で今回、割と純粋に「競技そのものの面白さ」で語られていたのが、
カーリングだったのかなぁ、と。


そんなカーリングの、競技としての面白さを構築している、大きな要素の1つが、
カーリング精神」で。


カーリングは、五輪にも採用されるよーな対戦競技でありながら、
referee(仲裁する人)やjudge(判断する人)やumpire(審判する人)がほとんど登場せず、
ほとんどの進行が競技者同士のセルフジャッジで行なわれている。
三者が出てくるのは、どっちがファーストストーンか微妙な時にコンパスみたいなものを持ち出して測る時くらいで。
競技のうえで起こった微妙なこと、
例えばスウィープしている時に足が石にぶつかったんじゃないか、とか、
そーゆーことが起こっても、
基本は当人同士の話し合い、てゆか、当人が「ぶつかってない」と言ったらぶつかってないと信じる、
とゆーことになるんだ、と聞いた。
基本、第三者がからまないから、
買収なり八百長なり何らかの意思なりが、とりあえず加わりづらいわけで、
だから、競技そのものを楽しめる、
とゆーのはありそうだ。




青木問題で散々書いたことの、ある種繰り返しになりますが、
スポーツとゆーのは基本、
相手を打ち負かすこと、人を蹴落とすことによって成立しているわけで、
そんなことをやってたら、いつかは、心がすさむ。
だから、心がどんどんすさんで行かないよーに、
スポーツマンシップ」だったり「武士道」だったり「横綱の品格」だったり「カーリング精神」だったり、
あらゆるスポーツには、何らかの制御装置が必要なのだろうと。
それが伝統であり文化なのだろうと。




ま、カーリングだって別にそんな奇麗ごとだけで済んでいるわけではないかもしれず、
はっきりいえば狭い世界だから、
派閥や権力争いはあるんだろーし、
それこそ近江谷の親父がどーのとかあるのかもしれないが、
そもそも、ウィンタースポーツそのものが、北半球に住む白人の道楽であって、
そこには本質的に差別が含まれてる、とも言えるのかもしれず、
でも、
それはそれとして、
建前であっても「カーリング精神」とゆー伝統なり文化なりが、
ちゃんと存在しているのは、
やっぱり必要なことだなぁ。と思います。