PRIDE海外進出の可能性その2

ここで唐突に、柄谷行人「世界共和国へ〜資本=ネーション=国家を超えて」から引用(笑)。
といっても実は、僕もこの本をまだ第1章までしか読んでないのだが、柄谷行人の本って1ネタでずっと押し切るパターンが多いので、恐らく第1章で書いてあることをその後の章でも繰り返してるだろうと予測されるので、まぁいいだろう。



チョムスキーからの引用として、産業的先進国で取りうる国家の形態を「(国家による)統制/自由」「平等/不平等」を軸に座標にまとめる。
第1象限の「統制・平等」は、「国家社会主義」、具体的にはソ連のような共産主義スターリニズム
第2象限の「統制・不平等」は、「福祉国家資本主義」、ケインズ主義的・福祉国家的、もしくは社会民主主義
第3象限の「自由・不平等」は、「リベラリズム」、アダムスミス以来の経済的自由主義、今では新自由主義
で、第4象限の「自由・平等」は、「リバタリアン社会主義」、これはまだどこにも実現していない「リベラルな社会主義」で、アナーキズムや評議会コミュニズムだと。



で、それぞれは別の象限に対する対抗で存在しているわけですが、第1象限の「国家社会主義」は1990年前後のソ連圏崩壊によって事実上消滅し、それに対する存在であった第2象限「社会民主主義」も力を落とし、また国家社会主義を超え第4象限を目指す理想主義も、その想像力を失ってしまったと。


では何故「リバタリアン社会主義」は実現しなかったのか。
それは、プルードンマルクスの「国家」に対する認識に甘さがあったからではないか。
経済的な階級対立を解消し真の民主主義を実現すれば「国家」は消滅する、と考えていて、国家そのものが自立性を持って存在するものであるとゆー認識が無かったからだと。
だから今、国家の自立的存在性を認識しながら、国家=ネーション=資本を超える道筋〜「世界共和国」に至る道筋を指向する必要があるのではないか。




・・・ってことですな、たぶん。
で、この「国家」を、今の格闘技のプロモーションに援用してみようかと思ったんですが(笑)。



(続く、つもりだが失敗したらどうしよう、唯物論的興行論への道は険しい)