「危険」と言うことの危険

前エントリーで言及した件について、熊久保さんからブログで回答をいただきました。
言ってた企画は、まだ実現していないそうです。
熊久保さん、失礼いたしました。




前エントリーの続きですが、格闘技界も、みんなが乗れるような大きな物語が今は無いので、それぞれが局地戦で言葉を紡いでゆくしかないんですよね。
コメントいただいたフリジッドスターさんもそうだと思うし。




で、ひとつ僕がいま考えているのが、タイトルに書いた、「危険」とゆーことの危険、みたいなことだったりするんですが。
たぶんこれは、コメントいただいたドキタさんらとは意見を異にする部分だと思うんですけれども。



あらためてゴン格でのもう一つの注目記事として、谷川インタヴューとネット座談会に挟まれる形で、アベアニ・山田・吉鷹らによる「総合でのボクシングの危険性」についての座談会があって。
これも、企画としては意義深いものだと思うし、別に文句つけるよーなものでは無いとも思うんです。
でも僕がここであえて引っかかるのが、「危険」だってのはわかったけどその後はどーなの、とゆー。
例えば前エントリーでも言及した格闘技ライターさんのブログでも「勇気ある欠場」との表現がされているわけですけど、僕が引っかかるのは、「危険」だとか「欠場」だとか言うことに勇気があるわけではない、ってことで。
勇気がいることは、「危険」と言うことではなく、むしろ「大丈夫」と言うことの方のはずで。
こういう例を出すのはあまりよくないが、万が一事故が起こったときには、「危険」と言ってた人よりも「大丈夫」と言ってた人に責任は問われるわけだし、でも誰かが「大丈夫」と言わないかぎり何も始まらないんじゃないのかと。



「ここまでなら『絶対に』大丈夫」なんて点は存在しない。
「ここからは『絶対に』危険」なんて点も存在しない(あるとしたら、格闘技なんてやらないこと)。
そんな中で、もちろん危険性はあるけど、でもここまでなら大丈夫かも、とゆーのの綱引きで現実的に落としどころを判断して決める・・・ってゆー「判断」することこそが、本当に勇気がいることのはずで。
でも、「『危険』と言うこと」ってのは、何か「自分は勇気を持って警鐘を鳴らしている」みたいな、自己満足といっては語弊があるかもしれないが、「危険」と言ってることだけで思考停止してしまって、本来勇気を持って行なうべき現実的に必要な落としどころの「判断」を回避してしまう・・・という危険を生むのではないか。




まぁ、例えとしてアレですけど、「北朝鮮が核実験をやった。危険だ!」ってやたら「危険」を言ったところで、そんなの「じゃあ日本も核武装だ」みたいな幼稚な反応を生んでしまうだけで。
そこで必要なのは、北朝鮮の核実験が、実際にはどの程度のもので(どの程度「大丈夫」なものなのか、を判断して)それが日本や世界にどんな影響を与える可能性があってその中でどんな対応をとるべきなのか・・・とゆー現実的でクールな判断のはずで。
「危険!」と発言することは、その行為そのものの中に危険性を孕むものだ・・・とゆーことを、僕は何かに付け思うんですけれども。