スポーツを語る言葉

スポーツ総合誌の相次ぐ休刊・廃刊を受けて、玉木正之のコラム。
http://www.tamakimasayuki.com/sport.htm
面白かったので、メモ代わりに。
「アマチュア/プロ」という『二項対立的認識』ではない「スポーツ」、ってのは、確かに日本では具体的にイメージしづらいかも。





スポーツ総合誌の相次ぐ「廃刊・休刊」に関して考えられる理由

(1)若者が文章を読まなくなった(読書離れ・文字離れ)。
 これは、よくいわれていることですよね。

(2)若者が(情報誌以外の)雑誌を買わなくなった。
 「出版不況」「雑誌不況」といわれて、もう10年以上になります。

(3)かつての読者層だった野球ファン(文章を読む野球ファン=理屈を楽しむ野球ファン)が減った(WBC優勝も売り上げ増にはつながらなかった)。
 かつて小生の書いた『プロ野球大辞典』(新潮文庫)は約7万部、ロバート・ホワイティングが書いた(小生が翻訳した)『和をもって日本となす』(角川書店)は10万部売れ、野球ファン相手の野球本は、かなりの売り上げが期待できました。が、単行本の売り上げも、雑誌の企画としても、野球では売れなくなってきました。

(4)かつての読者層だったボクシング・ファン、ラグビー・ファンが減った。
 かつては沢木耕太郎氏による『一瞬の夏』(カシアス内藤)や佐瀬稔氏による『感情的ボクシング論』、さらにノーマン・メイラーによるモハメド・アリなど、ボクシングの読み物は、多くの読者をつかんでいたのですが、ボクシングそのものが面白くなくなった(傑出したボクサーが減った?)のか、読者層としてのボクシング・ファンが減ったように思えます。また、社会人ラグビーの話題もコアなラグビー・ファンに限られるようになり、大学ラグビーは所詮一部の大学関係者のものであり、読者層としての広がりを失ったようにも思われます。

(5)「理屈」を楽しむスポーツ・ファンが減った。
 テレビで様々なスポーツが放送されるようになり、細かいスポーツの「理屈」を(文章で詳しく)楽しむよりも、エンターテインメントとして見流す傾向が強まったといえるかもしれません。

(6)理屈を楽しむスポーツ・ファン(サッカー・ファン)は、総合誌ではなく、(サッカー)専門誌を買い求めた。
 サッカー・ファンは、日本代表監督の選出問題や戦術論等、「理屈」を楽しむようになりました(サッカーがテーマだと雑誌も売れました)が、そういうファンはサッカー専門誌を読めばいいわけで、スポーツ総合誌としては苦戦を強いられました。

(7)6月のW杯で日本代表チームが惨敗した。
 勝ってれば、雑誌も売れたのでしょうが・・・。

(8)スポーツをテーマとした文芸の質が低下した(飽きられた?)。
 沢木耕太郎さんや山際淳司さんのような書き手のスターは出ませんね。

(9)団塊の世代以後の作家(ライター)がスポーツから新しいテーマを導けなかった。
 沢木さんや山際さんは、「団塊の世代の(70年安保での)挫折感」とスポーツ(での敗者)をシンクロさせ、スポーツを社会的テーマに広げましたが、その後、スポーツから社会的広がりを持つテーマを導くことができていません。

(10)文芸としてのスポーツ(「ナンバー」の創刊以来の伝統)を凌駕する思想を明確に提示できなかった。
 沢木耕太郎さんの成功から誕生した(といってもいい)『ナンバー』に対して、『スポーツ・ヤァ!』は、文芸のテーマとしてのスポーツではなく、スポーツ・ジャーナリズムを目指したわけですが、スポーツ・ジャーナリズムとはどんなものか? それがなぜ重要で必要なのか? ということを、明確に提示することがまだまだできなかったように思えます。

(11)スポーツ・ジャーナリズムを展開できなかった。
 スポーツにはエンターテインメント的な要素も必要なのですが、もっともっと批判精神が必要だったように思えます(これは大きな反省点です)。

(12)スポーツ・ジャーナリズムの必要性に対する社会的認識が希薄だった。
 スポーツが「学校体育」として発展した我が国では、「アマチュア/プロ」という『二項対立的認識』がまだまだ根強く、「必死に戦うアマチュア」「エンターテインメントとしてのプロ」という考えのみで、社会に必要なスポーツという考えが希薄です。従って、日本のスポーツは「よく頑張ったか否か」「面白かったか否か」という観点しかなく、このようにすれば、もっとスポーツが素晴らしいものになる、もっと社会が豊かになる、というジャーナリズムの観点が主張しにくかったように思われます。

(13)巨大メディア(新聞・テレビ)がスポーツを自社の利益と結びつけ、エンターテインメントに走った(スポーツ・ジャーナリズムの重要性に目を向けなかった)。
 メディアがスポーツの主催者ですからね・・・。

(14)出版社(メディア)にスポーツを重視する思想がなかった。
 出版ジャーナリズムとしてのスポーツの重要性に対する認識は、まだまだ希薄で、少々赤字でも、こういう雑誌(スポーツ総合誌)は必要だ、という考えには至ってませんね。

(15)出版社(メディア)が利益至上主義(世の中の動勢)に走った。
 たった数人の編集部で数億円の利益を出せるアニメやゲームの雑誌に対して、スポーツ総合誌となると、10人以上のエディターに、同数以上のライターやカメラマンを抱えたうえ、さらに大きなネットワーク(取材網)が必要なわけで、出版社が利益至上主義に走る限り、良質のスポーツ雑誌の出版は難しい・・・というほかありません。とはいえ、どんなに利益至上主義といっても、「ポルノはやらない」という矜持が存在するのであれば、「スポーツはやるべきだ」となるはずなのですが・・・。

(16)スポーツの重要性に対する認識が日本の社会においてまだまだ希薄だった。
 ・・・というわけで、小生は、まだまだこのことを(あまり面白いとはいえない作業ですが)やりつづけなければならないようですな・・・。皆さん、『スポーツ解体新書』(朝日文庫)を読んでください・・・というのは、けっして我田引水じゃないと思うのですが・・・。