オシム・ジャパン2007始動

代表合宿を終えたオシム・ジャパンですが、
橋本治のコラム集「ああでもなくこうでもなく」で、オシム・ジャパンについて書かれている章があったので、引用しておきます。
さすが橋本治
僕がオシムに興味を持ったその理由を、見事に言語化してる。


 サッカー日本代表チームの監督に就任したイビチャ・オシムは、バッシングにあうんだろうか? あわないんだろうか? ーーこれが、小泉政権後の私の関心事だったりもする。
 別に日本人に限らず、人は、「自分が考えたこともないようなこと」を一方的に聞かされることに堪えられない。これに堪えようとするのは、「自分は悪いことをした。反省しなくちゃ」と思う態勢が出来上がっている人間だけである。そうでない人間は、「こいつは、なにわけの分かんないことを言ってるんだ!」とキレる、そういうことを、オシムの記者会見の様子を見ていて思った。
 言ったら悪いが、日本のスポーツ記者達は、「人間の中に知性が備わっている事実に生まれて初めて直面して、面喰らっている」というようにも見えた。オシムの方が、「ここで本当なら質問が出るはずなのですが、出ないので私の方から説明しましょう」などと、まるで学校の教師のように試合の内容を分析しているのを見ると、「ウワォ」と思う。そもそも「全日本の監督」みたいな立場の人は、「こうしたから勝ちます」という「勝てますよね?」を勝手に期待する人間にテキトーなことを言って相手にしていうりょうな職掌ではあったーー「こうしたから勝てます」が三度続けて失敗すると、バッシングにあうが。
 オシムは、「勝てるか勝てないか分からない」と、平気で言う。それは、日本選手の状態をちゃんと見て判断していて、そもそも就任の契機というか最初のハードルが、「私の目から見て“世界で通用する”とは言いがたい選手を、果たして“世界で通用する”のレベルにまで引き上げられるか?」だったはずで、そんなオシムなのだから、「まだだめだと思う」は、当然に口から出る。普通なら、「そんな無責任な!」という反発にあうはずだが、「我々の現状は“まだだめ”である」ということを、ドイツ・ワールドカップでの惨敗によって、スポーツ記者達も共有しているから、「オシムはなにかを考えているんだから仕方がない」という容認になるーーこの容認がいつまで続くかである。
 あるところで「負けてばっかり」という結果が出ると、「もう我慢の限界だ!」と言って、「監督交代」を主張する人だって出てくるかもしれない。「だめチームをなんとかしようとしている、その途中のやっと曙光が見えかかった段階で、上から“もうクビだ!”と言われて一切が水泡に帰す」という話は、いたってありふれて存在しているーー私自身だって経験があるし。
 でも、今の日本で一番必要なのは、「その場しのぎの力」ではなくて、「本当に身に宿った力」なんだから、「それが身についてない」になったら、どうあってもそれを身につけるのが最優先されるべきことだろうーーたとえ一時的な敗退とか屈辱を喫したって。
 オシム・サッカーの基本は「考えて走る」の言葉に要約されてしまったが、まさかそんなイージーなものであるはずはない。考えてたら、走れない。考えて走ったら、怪我をする。考え考え走るというのは、モタモタ走っているということである。
「考えて走る」を私なりに整理すると、これは、「走ることがそのまま“考えている”ことになるような状態になるまで、“走る”という能力を我が身に宿させろ」である。「走っていることがそのまま“考える”になっている」という状態を実現させなければ、サッカーの「すごい選手」にはなれない。それは、「試合時間中は、なんであっても常に“走る”という状態をキープさせている」ということで、この条件をクリアすれば、日本人選手によく言われる「決定力不足」は解消される。つまり、「考えて走る」は、「考えて走るな。ただ走れ。走って走って、ただ走ることに慣れて、走っている間に明確に状況が認識出来て、自分の認識に基づいて動けるようになれ」なのである。
 こんなハードな前提を課せられて、果たして日本人選手は、それをこなせるのか? そんなとんでもないことをこなせるのは、実のところ「特別な人」だけなのである。この「特別」を野放しにすると、「スターだから特別な力がある」と錯覚する、日本人独特の楽天主義になるが、一番重要なのは、「誰が特別な人なのかは、そう簡単に分からない」ということである。分からないから、「ともかくみんなやってみる!」になるのである。それは実は、オシムに独特な方法論ではなくて、ある時期まで、日本人が当たり前に理解していた、いたって日本的な方法論でもあるのである。それを日本人が忘れて、外国人監督に言われている。外国人監督の言うことだと思うから「奇異」とも思われるが、オシムの持つ知性は、とても日本人に親しみやすい知性なのである。そういうところにまで、日本人は戻ったのである。
 こういう要請が登場してしまうということは、「今までじゃだめ、今まではなんでもない」という前提あってのことで、やっと日本人は、忘れていた「我を振り返る」を取り戻そうとしているのであるーーと、私は解釈しているのである。安倍晋三イビチャ・オシム並の知性を要求してもしょうがないんだろうが、オシム・ジャパンのあり方は、今後の日本のあり方を象徴していると思うので、「頑張れオシム・ジャパン」と言っておきたい。


そーいえば橋本治は、
亀山・新庄時代の阪神も推していたなぁ。