ジョシカクの危機

ちょこっと時間があいたので、
本屋行って格闘技雑誌のジョシカク関連記事を立ち読みしてきました。



女子総合を語るときに、
「男もすなる総合というものを、女もしてみんとてす」とゆー、
競技的とゆーか修斗的とゆーか、
「女子修斗をやるんじゃない。ただ修斗をやるだけ(その選手が女子なだけで)」
とゆー男女共同参画社会的な立場が一方にあって、
競技としての女子総合として、それは全く正しくて真っ当なわけですが、
結局それだと
「女子はレヴェルが低い」「筋力や骨格で男子に劣る女子は格闘技に向いてない」「だからわざわざ見る必要がない」
レヴェルの、これまたつまらないほどに至極真っ当な意見に、簡単に負けてしまうかもしれなくて。


で、もう一方に存在するジョシカク主義者の立場ってのは、たぶんそーじゃなくて、
「(女子も面白い、んじゃなくて)女子だからこそ面白いんだ」「女の子の方が、人を殴るのに、格闘技に、実は向いてるんだ」
とゆー、
ジョシカクの「ブレイク」のために根底に共有されてたのは、こっちの視点だったと思うんです。



つまりは認識の逆転であり、
そのために必要だったのは、ある意味

「言葉による革命」

だったはずなんですよね。
普通に考えたら、面白いわけ無いどころかむしろ反社会的とも言えるものが、でもそれが実際に見てみたら何故か面白い、
とゆー、意識の転換を可能にするための、
言葉の力。


で、
そのジョシカクがもし危機なんだとしたら、
それは取りも直さず
「格闘技を語る言葉の敗北」
以外の何物でもないはずで。


それは別に、格闘技専門誌の編集やライターだけが悪いわけじゃなくて、
僕も含めたネットにもちょっといたジョシカク主義者ももちろん入れたうえですけど。
紙プロが、ジョシカクとネットの関わりに触れてたけど、
なんでネットの人間が(ま、実際はそんなにいなかったと思うけど)ジョシカクに強かったのかと言えば、
そもそもそれが逆の話で、
渋谷Atom時代に、格闘技専門誌はといえば、レヴェルが低いだの体重差だの安全面だの保険だのなんだの言って足ひっぱってたわけで(紙プロ・チョロ氏以外は)。
そこに何かを「発見」して「言葉」にしたのが、
専門誌じゃなくてネットにしかいなかったわけで、
ネットとジョシカクなんて、つまるところ単純にただそれだけのことだと思うんですけどね。

薮下やナナチャンチン星野育蒔篠原光や角田絵美、でしなしや辻ちゃんや渡辺や・・・
なんだかまだわからないけれどもそこに確かに存在する何かを「発見」して言葉にして人に伝えることが出来たのが、専門誌の格闘技ライターにもネットにも、結局いなかったわけで。
僕はリアルタイムで知ってるわけじゃないけれども、そもそも「格闘技通信」が創刊された時には、格闘技シーンなんてのは無かったわけで、
谷川やターザンが格闘技そのものを「発見」してゆくことから始まったわけですよね。
で今、格闘技を言葉で語ることを生業にしてる人ってのは、既に目の前にある格闘技を当たり前のものとして享受したうえで語っていればよくて、
別に新たに「発見」する必要がないわけで。
つまりは「モノを作る人」から「現状維持の人」へと移っていったと。
そーゆー人達が、ジョシカクを「発見」して「言葉」に出来なかったのは、まぁしょーがないといえばしょーがないのかもしれないですけどね。
(そもそも「ジョシカク」とゆー言葉自体が、ターザンの「発明」なわけだし。)



やっぱ言葉が負けたんだと思います。
読んでる人の心を震わせ、動かし、見てみようとゆー行動に移させるだけの言葉を、誰も紡ぐことが出来なかった。
格闘技の言葉の革命は起こせなかった。
とりあえず格闘技専門誌3誌のスマック特集記事を読んだけど、
どれもみんな他人事で、
ここんところを自覚してた特集は無かったですね。